音楽における「主体」とはなんだろうか

『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』を読み終わる。
Jポップを言語行為論を援用しつつ分析した4章(読んだことある気がしたら『ユリイカ』に掲載された原稿を加筆したもののよう)、有名な「日本語ロック論争」(別名はっぴいえんど論争)の孕む複数の問題系を明らかにした5章、忌野清志郎〜ピチカート・ファイブ〜Shing02を対象に「君が代」がどのように捉えられてきたかを追った6章がなかでも刺激的だった。

4章ではポピュラーミュージックにおいて「言表行為主体」(フィクション全体を語る「作者」)と「言表主体」(フィクション内部の「語り手」)という異なる二水準をリスナーが混同する傾向が指摘されていたが、この二水準の関係や受容のされ方もアーティストやジャン、ごとに多岐にわたるように思い、いろんな例で考えてみたり。(デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』とか)

例えばマイナー・スレットの"Out of step"という曲の"(I) Don't smoke/Don't drink/Don't fuck"という歌詞のように言表行為主体が言表主体に限りなく近づく(ように思われる)場合、それをリスナーの「混同」と言い切ってしまえるのだろうか?と考えたり。(ちなみにもとは"Don't smoke"のように命令形だった。ジェフ・ネルソンがこのピューリタン的な主張をバンド全体ではなくイアン・マッケイ自身だけのものであることを明確にするため一人称にすることをイアンに要求して、両者は対立、結局イアンが譲歩するかたちでカッコ付きの一人称とした。)
でもやはりこのリリックを「ホントウのこと」と捉える見方は音楽実践そのものよりも音楽実践をめぐる言説、具体的にはイアン・マッケイを偶像視する言説、ストレート・エッジを「思想」と捉える言説によって形作られるものであるから、結局のところ悩めるロック青年トム・ヨークと何ら変わらないんだなあと反省したり…。というかその後のストレート・エッジ「思想」のドグマ化、排他性はまさにこの混同によるものだしなあ。

だいぶ前から「英語の勉強」と称して"Our Band Could Be Your Life: Scenes from the American Indie Underground, 1981-1991"という本を読んでるんですが、今日読んだ箇所でハスカー・デューのボブ・モールドが1983年にマイナー・スレットと対バンしたときに初対面のイアンに対して
"Straight edge sucks."
と言い放ったというエピソードがなんかウケました。

この本は1981年から"Never Mind"が出て終焉を迎える1991年までのアメリカのインディ・ロックシーンで後世に影響を及ぼした13のバンド(非常に恣意的で偏ったセレクトなんですが)の年代記なんですが、SST、Touch&Go、K、Sub Pop、Dischordといったレーベルのバンドが好きな人、オルタナロック好き人にはオススメです。翻訳出ないかなー、出ても売れないだろうけど笑。

Our Band Could Be Your Life

Our Band Could Be Your Life